Detail DTL


改装前の航続力は16ノットで5,500浬だったが、改装で10,600浬とほぼ倍加した。, 竣工時の長門と陸奥の識別点は様々な点があり、主なものでは主砲塔用測距儀が長門は波式6m測距儀で陸奥は武式8m測距儀で大型化している(改装時に両艦とも10m測距儀と交換)。また、艦首からの眺めでは菊の御紋章の位置が長門よりも陸奥の方が上がっている点も挙げられる。, 「これからアメリカが造ろうとしている主力艦は陸奥のような三万二千七百トン位しかないちっぽけな軍艦ではない。モンタナ級の五隻などは一隻で五万八千トンもあるという大戦艦だ」高山書院『日本は勝つ』福永恭助著 昭和18年5月発行より引用, Ref.C10100742300「2年10月15日 英国戦艦「ワースパイト」中央切断図の件及其の図一部訂正の件」、 Ref.C10100743500「2年12月24日 英国戦艦「ワースパイト」全体配置図等提出の件」など。, 「軍艦長門、扶桑要目」p.4、「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」p.2, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=長門型戦艦&oldid=77551985, 朝日新聞社 編『海軍少年航空兵』(東京朝日新聞発行所、1937年)「戦艦長門へ乗艦」, 宇都宮俊雄 『海軍記念写真帝国軍艦帳 : 演習並海軍生活状況』(宇都宮総本店、1924年), 佐藤光貞『海軍の科学』(東亜公論社、1941年)「戦艦『長門』と『陸奥』はいつ出来たか」, Ref.B04122588300「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」, Ref.C10100742300「2年10月15日 英国戦艦「ワースパイト」中央切断図の件及其の図一部訂正の件」, Ref.C10100743700「2年10月17日 英新戦艦「ワースパイト」に関する件」, Ref.C10100741900「2年10月21日 英新戦艦「ワースパイト」並に新軽装甲巡洋艦「オーロラ」に関する件」, Ref.C10100742500「2年11月20日 英新戦艦「ウォースパイト」に関する件」, Ref.C10100743500「2年12月24日 英国戦艦「ワースパイト」全体配置図等提出の件」, Ref.C10100743400「2年12月30日 英艦「ウォースパイト」に関する件」, Ref.C10100802100「6年4月10日 英艦「クイン・エリザベス」及「オースパイト」乗艦中見聞報告の件」. 長門型は、米海軍が今後戦艦主砲に16インチ砲(40.6センチ砲)を採用することを予測して、16インチ級艦砲を搭載することになった 。 まず第一次世界大戦前の1914年(大正3年)6月2日、日本海軍は16インチ級砲の試作を公式に命じた 。 この砲は、すでに前年から開発がはじまっていたという 。 皇太子・東郷平八郎大将・山階宮菊麿王達は装甲巡洋艦「磐手」(供奉艦笠置)に乗艦し[51]、12月11日に呉へ到着した[52][53]。 長門型は近代化改装において、主砲の強化をおこなった。砲弾の改良もあって、性能は大幅に強化された。改装後の性能は初速790m/s、最大射程38,430m(最大仰角43度/俯角2度)、砲弾重量1,020kg(九一式徹甲弾)、砲身の命数は250発、距離20キロでの垂直装甲貫徹力は454ミリであった。, また、建造時の長門には、砲の駐退機構と揚弾機への動力供給能力不足により「斉発(多連装砲塔が、搭載砲を同時に発砲すること。全砲を一斉に発射する場合も斉発と呼ぶ)」を多用すると射撃速度が低下するという問題があった。折しもワシントン海軍軍縮条約で加賀型戦艦の建造が中止されたため砲身が余り、長門型に移植された[29]。さらに、弾庫及び装薬庫の移送機能強化、装薬缶の形状変更などの改善がされている。, この改善により、それまで常用されてきた搭載砲の半数ずつを交互に発砲する「斉射(交互一斉打ち方)」だけでなく、全搭載砲の斉発を支障なく行えるようになった。しかし、斉発可能となったことにより今度は揚弾能力の不足が問題となった。昭和14年の『術科年報』によると、斉射による交互射撃では16秒ごとの砲撃が可能だが、斉発では30秒前後が精一杯とされ、実際には最初の10発ですら平均50秒近く要する艦や、長門の3番砲のように41発目以降の揚弾で100秒を越える艦があるなど、要求された発射速度を達成できなかった。, 実際の発射速度は、昭和14年の艦隊演習時で、14インチ砲の記録では、最良で40秒、最悪で1分20秒であった。長門型の41センチ砲もほぼ同等と考えられている。, また命中率改善のために、各砲の射撃タイミングをわずかにずらす九八式発砲遅延装置が搭載された。これにより、全砲による斉発を行った場合、1発の命中弾(水中弾を含む)が75%で期待できる距離が34,500mとなったとされた。しかし実際には25,000mを越える距離での着弾観測が困難であること(32,000mまでの測距は一応信頼が置けるが、近弾以外の弾着水柱を確認できないので、観測機を併用しなければ着弾修正が難しい)から、遠距離射撃に対する問題は解消されていなかった。, 演習時の観測機使用による主砲の散布界は、昭和15年度の昼間乙種戦闘射撃実施記録では、自艦速力21ノットのさいに長門が32,500mで遠近261m/左右102m、命中率は15.7%(水中弾による命中を考慮した第二有効帯を含めるなら、17.5%)、陸奥が32,300mで遠近200m/左右52m、命中率14.9%と優れた数値も残っている(ただし、陸奥は同じ演習で28,300mで12発撃って命中0、長門も命中1など、あくまで目安でしかないことに注意)。, さらに昭和19年12月に、一度充填した砲弾を他の弾種に変更する機構を追加設置したとされている。, 主砲塔はクイーン・エリザベス級戦艦と同様の配置となり、連装4基を前後に背負式で配置した。砲塔は従来のイギリス式に日本式設計を加味した新型となり、天蓋装甲はジュットランド海戦の戦訓を受けて6インチに強化された[43]。だが、基本的には従来の構造(イギリス、ヴィッカース社)を踏襲している[43]。16インチ級砲を搭載したため、砲塔旋回部重量は伊勢型戦艦から350トン増加して900トンとなった[43]。砲塔動力は、伊勢型とおなじ650馬力水圧ポンプ4台であった[43]。, 後日、長門型の主砲塔8基は、加賀型戦艦に搭載予定で10基生産されていた改良型主砲塔(うち土佐むけの2基は、すでに陸上砲台に転用)に換装された[44]。撤去された長門型の砲塔のうち、陸奥3番主砲塔は江田島に陸揚げされ、現存している[45]。, 前型である伊勢型に引き続き「五十口径三年式十四糎砲」を搭載した[4]。搭載位置は両舷の最上甲板と上甲板の二段ケースメイト配置に装備され、単装砲20基を搭載した。伊勢型よりも船体容積が増したため、副砲により居住空間が狭くなる弊害は少しは改善された[4]。その他に「四十口径三年式八糎高角砲(実口径は3インチ)」を第一煙突両脇のシェルター甲板に2基ずつの計4門搭載した。, 改装により、三年式8センチ高角砲を降ろし、代わりに八九式12.7センチ連装高角砲4基(計8門)を搭載した、重量問題などもあり副砲2門を降ろしている。, さらに昭和18年6月に、二号一型電探を搭載した。マリアナ沖海戦後に二号二型電探、一号三型電探各2基搭載、対空機銃増設(計98門)を行った。なおこの時点で副砲2門を代償重量として撤去されたとされていたが、昭和19年10月に撮られたブルネイ停泊時の長門の写真では撤去はされていない。レイテ沖海戦後には、副砲4門撤去の代償として、八九式12.7センチ連装高角砲2基(計12門)、25ミリ機銃30基(計128門)を増設している。こうした装備のほとんどは、昭和20年6月に本土決戦に備えた特殊警備艦となった際に降ろされている。, さらに、53.3センチ魚雷発射管を8門(4基を水上設置の半旋回型とし、残りは水中装備)搭載していたが、改装時に撤去された。, 竣工時には弾着観測用気球を装備し、甲板後部に係留・発艦させていた。水上機による弾着観測が実用化されると弾着観測用気球は水上機に置き換えられたが、カタパルトが実用化されていなかったためにデリックで水上機を水面に上げ下ろしし、水上機は水面より発進していた。改装前後の時期に実用化された呉式2号5型カタパルトが装備され、同時に艦載機運搬軌条とターンテーブルの設置、従来のデリックを廃止し収納式の強化デリックの新設などが行われた。艦載機には九五式水上偵察機、のちに零式水上観測機といったいわゆる「二座水偵」が3機搭載された。長門型に装備されたカタパルトは、旋回時に後部艦橋に接触することを防ぐため、前から1/4ほどの位置で上に折り曲がる機構を持っていた。, 建造中にユトランド沖海戦が起こったことから、長門型は同海戦の戦訓である「水平防御の強化、高速の実現」を反映した設計変更がなされた[4]。初のポスト・ジュットランド型戦艦として完成した。従来の戦艦にあった副水線装甲帯を廃止し、代償重量を水平防御力強化に回した[4]。水平防御は元設計の1.75インチ厚を1インチ強化した[4]。, 主砲塔前楯と側面は12インチ(305ミリ)、上面は6インチ(152ミリ)であり、コロラド級の18/9~10/5インチに比べ、前面は薄いものの、遠距離での砲戦には対応していた。ただしネルソン級は16/11/7.25インチなので改装前の長門型を上回る重防御だった。, 垂直防御は水線部305ミリ+傾斜装甲76ミリであり、343ミリのコロラド級とほぼ同等、330~356ミリ18度傾斜(垂直換算だと400ミリ以上)のネルソン級よりは劣っていた。, 水中防御は舷側装甲の下端から下方内側に傾斜した防御隔壁を備え、鋼板を3枚重ねた構造となっており、さらに水中弾防御として76.2mmHT鋼の隔壁を備えていた。水中防御区画の幅は6.2mであり、防御構造を加味する必要はあるが、コロラド級の5.334m、ネルソン級の5.625mを上回っていた。前述のように水平防御力強化の代償として舷側の非防御区画が拡大しており、船体には多数の防水区画が設けられた[28]。本型は、日本海軍が独自の集中防御配置を歩むきっかけとなった[28]。, なお、改装により、各部位の防御力は強化された。砲塔防御は前楯が460ミリ、側面は280ミリ、天蓋は127~191ミリとなっており、バーベットも457ミリとなっていた。, 垂直防御は、弾火薬庫部分の傾斜装甲に2~8インチ(50.8~203ミリ)を加え、垂直305ミリ+傾斜装甲127~280ミリとなった。ただし、弾火薬庫部分以外は新造時の305+傾斜装甲76ミリのままであった。, 水平防御は弾火薬庫部分で69.85ミリHT+127ミリNVNC+50.8ミリHT(合計247.65ミリ。1枚板換算だと180ミリ程度)。機関部の水平防御は50.8ミリHT+69.85ミリHT+25.4ミリDS+50.8ミリHT(合計196.85ミリ。1枚板換算だと140ミリ程度)と強化されていた。, 水中防御はバルジを加え約9mの幅となっていた。これはテネシー級(改装後)の7mを上回っていた。, 改装前の長門型は石炭と重油の双方を燃料としていた[47]。航続力は16ノットで5,500浬。 戦時中は秘匿されていたため、長門型2隻を上回る大和型戦艦「大和」「武蔵」の存在が広く知られるようになったのは、戦後の事である。ただし戦時中でも新造戦艦の完成そのものは公表されており、竣工から20年を経ている長門型戦艦が日本最強の戦艦だと認識されていたわけではない。またアメリカの新造戦艦の情報も日本国内に入っていた事から長門型が旧式である事は日本国民一般に認識されていた[14]。, 列強各国が14インチ(35.6㎝)砲搭載戦艦の建造に乗り出したことに対し[15]、イギリス海軍は技術的・性能的優位に立つために15インチ(38.1㎝)砲搭載戦艦の建造を開始、1911年(大正2年)6月にクイーン・エリザベス級戦艦4隻の建造が承認された[16]。同級は38.1㎝連装砲塔4基と充分な防御力に加え、最大速力25ノットを発揮する高速戦艦であった[3]。 まず第一次世界大戦前の1914年(大正3年)6月2日、日本海軍は16インチ級砲の試作を公式に命じた[36]。この砲は、すでに前年から開発がはじまっていたという[7]。 9月9日に残務処理終了[102]。 長門型では主砲塔の減少に伴い、1人あたりの居住面積が拡大した[5]。居住区を広く取れたため、乗員から歓迎されたという[5]。大和型戦艦を除けば、帝国海軍艦艇の中で最良の居住性を有した[5]。, 当初は前檣を三脚マストにする予定だった。だがユトランド沖海戦の戦訓を取り入れ、耐震性に優れる強固な主檣に六本の副檣を合わせた七脚檣を採用した[28]。海外からはパゴダ・マストとよばれ、日本戦艦の特徴となった[28]。前部艦橋は頂上部に円筒状ケース内に射撃方位盤を収めた射撃所とされ、水線からの高さは約41mとされている。数値上は大和型戦艦の艦橋高39mより高いはずだが、「大和」左舷に「長門」が横付けするのを「武蔵」艦橋から観察していた信号兵は「大和の檣楼は長門の艦橋より頭一つ(射撃指揮所、15.5m測距儀)高かった」と回想している[31]。頂上射撃所の下部は射撃指揮所、その下は檣楼指揮所とされ、半段下がって両側が副砲指揮所となっている。その次は列強の中でも大型の10m主砲用測距儀が置かれた高所測距儀所とされ、測距儀はレール上を旋回するという珍しい方式となっている。, 扶桑型の建造でも問題となった主砲発射による爆風の負荷に耐えるため、平賀譲の設計によって、艦橋部支柱をそれまでの3本から、7本に追加したと言われる。その爆風対策に問題はなかったが、新造時には艦橋が外に露出している事から、煙突からの排煙には悩まされた。牧野茂によれば、排煙処理が問題になった時点で平賀譲計画主任は藤本喜久雄部員に対策を検討させた[32]。藤本が前煙突を湾曲させることを提案すると、平賀は「みっともないことが出来るか」と拒否し、覆いをつけるという対策をとった[33]。ところが効果はなく、平賀は煙突を曲げるという藤本の提案を無断で取り入れ、両者の対立の一因となった[33]。この煙突は長門型戦艦のシンボルとなったという[33]。幾度かの改装と共に、艦橋構造は複雑な外観を呈した。艦橋にエレーベーターがあり、山本五十六長官が利用したという証言もある[34]。末期の「長門」には、偽装の為、頂上部の射撃所と電探が取り払われた。, 長門型は、米海軍が今後戦艦主砲に16インチ砲(40.6センチ砲)を採用することを予測して、16インチ級艦砲を搭載することになった[35]。 1917年(大正6年)1月14日、「筑波」は停泊中の横須賀港で、火薬庫爆発事故により沈没した[29][38]。, ジェーン海軍年鑑は、類別変更以前の装甲巡洋艦の分類を用いたが、ワシントン海軍軍縮条約において同型艦の「生駒」は、規制対象の戦艦として扱われた。, 一等巡洋艦「筑波」は、日露戦争初期に喪失した戦艦「初瀬」と「八島」の代艦として[29]、日露戦争臨時軍事費で建造された(安芸、薩摩、筑波、生駒、鞍馬他)[39][40]。 233より。, 「宇宙艦隊図録 File04 Sheet01B 地球防衛軍 宇宙戦艦ヤマト 艦内設備(1)」『宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第46号p. 艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた[28][29]。


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