ペトロ の否認 説教

  この「火」という言葉は、原語ではフォース=光という言葉です。この時代ですから、夜に光を作るものは「火」であったに違いはなく、「火をたいて」と訳されていますが、ルカは敢えてここで「火」ではなく、「光」という言葉を使っているのです。そこは、闇の中に光が灯されている場所でした。   さて、今日はペトロの説教についてお話ししたのですが、ペトロ自身にたいへんおおきな変化が起こっているということに注目しておきたいと思います。それは、「イエス様はわたしの救い主である」というだけではなく、「イエス様はあなたがたの救い主である」という者になったということ  意気込み、早合点も多かったペトロ。「主よ、御一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」と言いながら、舌の根も乾かぬうちに、イエス様を見捨てて逃げてしまったペトロ。しかし、後ろめたさや責任感、さまざまな錯綜する思いの中で、カヤパ官邸まで付いて来たペトロ。しかし、そこで、イエス様との関係を問い質され、三度もイエス様のことを「知らない」「違う」と否定してしまったのです。それは、自分も捕えられる可能性のある時の恐れもありましたでしょうが、咄嗟に出て来た、ペトロの心の本音であり、3年間イエス様のお側に居ながらも、本当にはイエス様を知らなかった。また三度、時間を置いて繰り返したということは、徹底的にペトロの罪が露にされた出来事であったのです。罪の自分にペトロはそれまで気づいていなかった。しかし、闇を照らす光によってペトロの罪は露わにされました。 ペトロの否認(ルカ22章54-62節),浦賀教会において2010年~2012年にかけて行われたルカによる福音書講解説教です  ルカによる福音書ははっきりとは語っていませんが、マタイ、マルコには、「この時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまった」と語られています。自分がイエス様と一緒に居た者だと知れたら、自分も捕えられると思ったのでしょう。イエス様が捕らえられ、縄をつけられている中、弟子たちは暗闇に隠れて蜘蛛の子を散らすように夜の闇の中に逃げてしまったのです。彼らが散らされたのは、暗闇の中でした。  鶏が鳴いた時、イエス様は、ペトロの方を振り返られました。ご自身が、十字架に向かう御苦しみの中にあっても、イエス様の心はペトロを心配しておられたのです。 毎週の礼拝説教全文を掲載しています。 神奈川県茅ヶ崎市共恵2-7-1; 0467-82-6579; home; 過去の礼拝説教; ペトロの涙; 過去の礼拝説教 「ペトロの涙」 2014年04月20日 聖書:マタイによる福音書 26:31~35、69~75.  罪ある弱いペトロに振り返られ、眼差しを向けられた主は、私たちひとりひとりに対して、今も眼差しを向けておられます。私たちが弱る時、間違った道に行こうとする時、イエス様はペトロに信仰が無くならないように祈られたように、私たちひとりひとりをも心に掛けられ、祈ってくださっておられるに違いありません。イエス様の愛は絶えず私たちを包んでおられます。  ペトロは逃げたけれど、その後、暗い闇の中、何食わぬ人の顔を装い、群衆に紛れるように、遠く離れながら、イエス様が引いて行かれた後に付いて行きました。自分も捕えられる恐怖は強くあったことでしょう。しかし、何食わぬ顔をして闇に隠れていれば、誰も自分がイエス様と共にいた者だということに気づかないだろう、ペトロはそのように思ったに違いありません。イエス様の逮捕の現場から逃げながらも、その直前で、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とイエス様に大見得を切ったペトロです。逃げはしたけれど、自分はイエス様の筆頭弟子だったという自負のもと、葛藤しながらも成り行きを見なければならないという責任感は残っていたのでしょう。, 大祭司カヤパの官邸の中庭の中央に人々は火をたいて、事の成り行きを注視していました。ペトロもその中に混じって、腰を下ろしました。そこは、イエス様の後ろ姿が見える場所でした。 10年程前、トルコのカパドキアという岩だらけ、洞窟の中に初代教会の人々が迫害から逃れるために、集団の住居というにはあまりにも大きな地下都市とも呼ばれる場所を作っていたという不思議な町で、日曜の朝を迎えたことがありました。トルコは、イスラエルに程近く、パウロが伝道旅行をした中心地です。しかし、歴史の流れの中で、今はイスラム教が国教という訳ではないですが、殆どの人がイスラム教徒。古代のキリスト教会が、史跡、博物館として僅かに残っているというだけという有り様で、生きて働いている教会が無いことは衝撃でした。どうしてパウロの伝道の地がこんなふうになってしまったのか考えながら、朝早く見晴らしの良い屋外のベンチで聖書を読み、祈りました。その時、鶏の声がしたのです。日本の鶏のように澄んだ声ではありませんでした。かなりの濁声。ゴゲゴッゴーのような感じの声で、イスラエルに程近いトルコの鶏の声を聞いて、今日の御言葉、カヤパ官邸で、イエス様、そしてペトロが聞いた、鶏の声は、こんな声だったのではないかしらと思い浮かべたことでした。, ところで、私たちは自分のことは意外に分かっていないのではないか、そんな風に思うことがあります。自分の姿は鏡を見なければ分かりません。そして例えば私たちに、あるポスト、社会的な立場が与えられたとして、忙しく過ごしているうちに、その立場にある自分が自分自身だと思うようになったりします。そして立場に相応しい服を着て歩きます。増してやそれが軌道に乗っている時、それが理想的な姿であれば、それこそが自分そのものだと思ってしまう。でも、その立場にある顔をして過ごしていても、実は内面はその立場にある前と変わっていないということはいくらでもあることでしょう。  すると、ひとりの女性=「女中」とありますから、カヤパ官邸の召し使いの女性のことなのでしょう、ペトロが焚き火=光に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言いました。 あの時、私はイエス様の光、イエス様のまなざしの中に置かれていたのだと思うのです。いえ、今も置かれていることを知っておりますが、その時は初めて、イエス・キリストの愛を、自分の理性や感情にとどまらない魂の奥底から、私という存在の根底から知り、自分の罪を知ったのだと思います。そしてさまざまな罪の中にあった私を、イエス様は憐れまれ、礼拝へと招かれ、キリストの愛と赦しのもと、新しく生き直すことを心に決め、縋るように教会に通い、半年後に洗礼を受けました。  その時、イエス様は、振り向いてペトロを見つめられた、と記されています。そのように敢えて語られているということ、そのことを福音書の著者が知っているということは、ペトロのイエス様とペトロはおそらく目が合ったのではないでしょうか。イエス様が振り向かれた、それをペトロは見た、一瞬目が合ったということを、ペトロ自身が語り継いでいたのではないでしょうか。 ペトロはもう一人の弟子と共に大祭司の屋敷に入りそこで門番の女性から、「イエスの弟子の一人ではないか」と聞かれ「違う」と否認したのです。一度ならず二度,三度「違う」と否認してしまうのです。すると鶏が鳴きました。 2018年3月4日 花巻教会 主日礼拝説教 聖書箇所:マタイによる福音書26章57-75節 「ペトロの涙」 マタイによる福音書26章57-75節《人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。 ホームページ上の「写真」「映像」「文章」などの内容を無断転載・転用を固くお断りいたします。. 1  イエス様はルカ22章21節、最後の晩餐の席で、ペトロに言っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。  私がキリストを求め、初めて教会に足を踏み入れたのは25歳の時でした。20代の前半は、私にとってはとてもとても目まぐるしく忙しい時でした。忙しくしている自分、それなりに好きなことを仕事にしている自分が、私だと思っていた。でも、どこか何かが違うという思いが心を掠めることがありました。何かが違う、何かが足りないということが心に掠めつつも、掠めてはそれを否定し、自分の心の赴くままに、時に無鉄砲に歩んでいたことを思い出します。 「知る」ということは、聖書に於いて、神との愛の関係を表す言葉であり、愛の関係の中に生きることを表す言葉でもあります。「知らない」と言ったペトロは、イエス様との愛の関係を否定したのです。このことこそが、「見捨てて逃げた」ことよりも深い、イエス様に対する裏切りでした。, イエス様は、そのことを、事の起こる前から知っておられました。 そして、尚一時間ペトロはそのままそこに居りました。そこは捕らえられたイエス様の姿が見える場所でした。  振り返られたイエス様の目。どのようなまなざしだったのでしょうか。ペトロの弱さを憐れまれ、限りない慈しみに満ちたまなざしだったのではないでしょうか。「立ち直れ」という意志も込められた、慈しみと力強さに満ちた愛のまなざしだったのではないでしょうか。愛のまなざしを罪人であるペトロに向けられつつ、イエス様は、自ら十字架へと向かわれます。すべての罪を、ペトロの罪もその身に代わって負われ、苦しみの道を歩まれることになります。, ペトロは主のまなざしの中で、生まれて初めて真実に自分自身を見たのではないでしょうか。それは、誰が一番偉いのか、自分が筆頭の弟子だと意気込んでいた影もない、みじめな、弱く罪にまみれた自分の姿でした。ペトロは、イエス様のまなざしの中、まことの光の中、自分の罪を知ったのです。自分の誉れも、この世の価値のあるものもすべて、イエス様の光の中では見えなくなり、真実だけが見えたのです。それは神に背いた罪人としての自分の姿でした。それに気づき、ペトロは号泣したのです。  イエス様は、弱く情けないペトロを限りなく憐れみ、愛しておられました。  しかしある時、行き詰まりました。道が見えなくなり、まさに暗闇を歩むような思いの中、家の窓から教会の十字架が見えることに気づき、翌日の日曜日、そこに向かって歩いて行ったのです。 【説教の参考に】 聖書の4つの福音書に共通に記されていることは、主イエスが十字架につけられて殺されたこと、復活されたこと、また、多くの奇跡をなさったことなどですが、その中で重要な記事の一つが、「ペトロの否認」の出来事です。  ペトロ、彼はガリラヤの漁師の出身でした。素朴な人であったのでしょう。その人が、イエス様に「人間をとる漁師にしよう」と言われて、網を捨てて従い、イエス様から誰よりも多くの教えを受けてきました。12人の中で、いつも先頭に立つように、イエス様の語りかけに誰よりも早く答えるような人でした。最後の晩餐の席で、「弟子たちのうちで誰が一番偉いのかという議論も起こった」という、何とも情けないことが書かれてありますが、いつも真っ先にイエス様の言葉に応答しているペトロです。自分こそが一番偉いと思っていたのではないでしょうか。それはペトロの自負であったことでしょうし、そうありたい自分でもあったことでしょう。そんなペトロの出来事を、受難週の初めの読んで行きたいと思います。, 闇が力を振るっている中、暗闇で、イエス様はユダヤ人たちによって逮捕されてしまいました。イエス様は昼にはいつも神殿で教えておられたのに、その時にはユダヤ人たちは手出しをしようとはしなかったにも拘らず、まさに闇討ちのように、「犯罪人のひとり」とされて、捕らえられ、ひとり大祭司の家まで引いて行かれました。 ペトロの否認(ルカ22章54-62節),浦賀教会において2010年~2012年にかけて行われたルカによる福音書講解説教です イエスが最初に選んだ弟子の一人で、ぺトロ(岩/教会の礎石)という名を命名された。 イエスが処刑された後、ペテロは初代教会の指導者となり、ローマ・カトリックでは初代教皇(在位:~64頃)と …

しかし、ある時、「自分とは一体何者なのか」に気づかされる時があります。それは、実は自分は自分勝手にひとりぼっちで歩いているのではない、神の光に照らされていることに気づいた時なのではないでしょうか。神を忘れて暗闇の中を歩いていても―実はその姿は世にあっては忙しく順風満帆に生きていることあったりするのですが―神の光、神の愛は私たちを灯し続けている。「光は闇の中に輝いている」ヨハネによる福音書1章の御言葉ですが、主なる神の光、まなざしのうちに置かれていることに気づいた時、私たちは、素の自分に、世の役割の服を纏っているのではない自分の本質に、また世には何にも変えられない真理があることに気づくのではないでしょうか。 先ほど、二箇所の御言葉を読んで頂きましたが、初めに読んで頂いた31節以下の御言葉の直前には、最後の晩餐の出来事が記されています。, マタイによる福音書においても、マルコによる福音書においても、最後の晩餐の記事は、ユダの裏切りの予告と、ペトロの否認の予告の間に、囲い込まれるようにして記されています。主イエスに、生涯従って行こうと決意して集った弟子たちの中から裏切りが起こる。主イエスの一番弟子を自認していた者が、主イエスを否認する。, 主イエスは、そのことを知りつつ、主の晩餐をなさったのです。そして、その主の晩餐を通して、このように崩れ去ってしまう弟子たちが、この後、何によって支えられるか。, それは、ご自分の全てを与えられた、という事です。崩壊しつつある弟子たちに、ご自分の全てを与え尽くされたのです。, あなた方が、これから何をするかではなく、私が、あなた方に全てを与え尽くす。だから、これによって、あなたがたは、立ち直りなさい。そのように言われたのです。, 教会は、そして、私たちは、主イエスが、すべてを与えてくださったことによって、支えられています。ですから、私たちは、崩れ落ちても立ち帰れるのです。, 「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。」, この31節で、主イエスはゼカリヤ書の御言葉を引用して、弟子たち全員の離散を預言されています。, 主イエスは、弟子たちの離散が、激しい迫害によるのではなく、弟子たちの「つまずき」によるものである、ということを知っておられました。, もし、主イエスが、弟子たちのつまずきを、予め知っておられたなら、なぜ、つまずきになるものを、前もって、取り除いておかなかったのだろうか、という疑問です。, しかし、引用されているゼカリヤ書の御言葉を、注意深く読むと、この預言は、羊飼いに対する羊の裏切りを言っているのではありません。そうではなくて、神様ご自身が、羊飼いを打ち、羊飼いを失った羊が、拠り所を失って、離散すると言っているのです。, 棕櫚の主日の礼拝メッセージでも申し上げましたように、大牧者である主イエスは、人から打たれたのではなく、神様によって打たれ、たたかれ、捨てられたのです。, ですから、このことは、弟子たちにとって避けることの出来ない「つまずき」であったのです。すべてを捨てて従おうとしていた主イエスが、神様によって打たれ、捨てられ、死に渡される。これは、弟子たちにとっては、つまずき以外の何ものでもなかったのです。, 心から尊敬し、信頼していた主イエスが、こともあろうに、重罪人がつけられる十字架にかかって、処刑される。それは、弟子たちにとって、本当に大きなつまずきでした。, しかし、主イエスは、この十字架のつまずきを、予告されただけでなく、その先に用意されている復活の希望も、同時に予告されました。, 確かに、あなた方にとって、十字架はつまずきとなるだろう。しかし、それは終りではない。, だから、その希望に励まされて生きなさい。32節で、主イエスは、そう言われています。, 主を裏切り、主を見捨てて逃げた弟子たちに会い、打ちひしがれた彼らに、新しい命と、生き生きとした喜びを与えるために、主イエスは先立ってガリラヤに行かれる、と言われているのです。素晴しい約束が、ここで語られています。, しかし、ペトロも、他の弟子たちも、この主イエスの救いの約束に、耳を傾けることができませんでした。彼らは、「あなたがたは皆わたしにつまずく」、と言われた、主イエスのこのお言葉のみに、心を奪われてしまっていたのです。, そんな弟子たちの不安を、無理矢理打ち消すように、ペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」、と言いました。, ペトロは、主イエスの預言を、一応は受け入れます。しかし、自分だけは例外である、と言い張っています。, しかし、この最も自信のある弟子のペトロが、このあと直ぐに、最も深刻なつまずきを経験することとなるのです。, 69節以下に書かれている、ペトロによる、主イエス否認の出来事は、四つの福音書のすべてに記されています。四つの福音書のすべてに書かれているということは、教会にとって、とても大切な出来事である、ということを表しています。, これは、ペトロ個人にだけ、起きた出来事ではなくて、教会全体に対して、起きた出来事なのだ。私たちすべてに、関わる出来事なのだ、ということを表しているのです。, ペトロに対して、主イエスは言われました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」, 「わたしのことを知らない」と訳された言葉は、元々は、もっと強い意味を含んでいます。, 更に、「鶏が鳴く前に」、という言葉によって、その時間までが、詳しく示されています。, 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。, ペトロは、最初は、「他の者はともかく自分だけは例外だ」と言い、二度目には、「死ななくてはならなくなっても決して ……」、と言い切っています。, 「自分は、最後の最後まで、主イエスについて行くぞ」、と言い放ったペトロ。そのペトロは、闇にまぎれて、逮捕された主イエスの後を、ひそかについて行きました。, ペトロは、大祭司の屋敷の中庭で、唾をかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれている主イエスを見て、とても歯がゆい思いをしたと思います。, 多くの人々の病を癒し、死人をも生き返らせた、あの偉大な力は、一体どこに行ったのだろうか。激しい嵐をも、たった一声で静まらせ、私たちの心を揺り動かした、あの力強いお言葉は、一体どこに行ったのだろうか。, そのように、思い悩み、迷っている時に、一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」、と言ったのです。ペトロは、この言葉を拒否します。「あなたは、イエスと一緒だった」、という言葉を拒否したのです。, 主イエスと共にいること。それがどんなに大きなことであるか。そのことが信仰の核心であるということを、私たちは、何度も聞かされてきました。, 主イエスと共にいること。いえ、それに先立って、主イエスが、共にいてくださるという事実を受け入れ、喜んでいくということ。 それが、私たちの信仰の基盤です。, ですから、ペトロは、信仰者として、「私はいつも主イエスと共にいる」、と言わなければならなかったのです。, 一体、この時、ペトロは、何を恐れていたのでしょうか。この時、別に女中たちは、ペトロを捕まえて、主イエスと一緒に、処刑しようとした訳ではなかったと思います。, ペトロを、大祭司に告発しようとした訳ではなかったのです。もし、本気でペトロを告発しようと思っていたなら、ペトロの答えが何であろうと、彼を捕らえて、連れて行った筈です。, また、大祭司たちも、ペトロまで捕らえようとはしていなかったのです。なぜかと言えば、主イエスが逮捕された時に、ペトロはそこにいても捕らえられなかったからです。, 彼らにとっては、主イエスだけが、逮捕の目的だったのです。しかし、大祭司への告発、そして処刑、という恐怖を、ペトロの方から先取りして、感じ取ってしまったのです。, 主イエスの、人間に対する洞察力の深さを示すためでしょうか。或いは、「そらごらん。私が言った通り、お前は私を裏切ったね」、と言ってペトロを責めるためだったのでしょうか。, ペトロが、自分の弱さに気付いた時、主イエスが、既に、そのペトロの弱さを知り抜いておられたということ。そのことを、ペトロに思い出させるためだったのです。, ペトロ自身は、知りませんでした。けれども、主イエスは、ペトロが、どんなに弱い者であるかを、既に知っておられました。そして、その事を思い出させるために、予告されたのです。ですから、ここでは、どうしても「鶏が鳴く」ことが必要であったのです。, ペトロが、三度、主イエスを否んだ。まさにその時に、主イエスの言葉を思い出すことが、必要であったのです。, 人が、自分の弱さに気づいて、深い嘆きと悲しみに覆われた時、その弱さを、既に主イエスが知っていてくださるという事。その事実を、私たちは、知らなければなりません。, 私たちが、自分の弱さを知ることは、大切なことです。しかし、それ以上に大切なことは、その弱さを、主が既に知っていてくださる、ということなのです。, ルカによる福音書は、この時、主イエスが、ペトロの方を振り向かれた、と記しています。, しかし、私は、ペトロの弱さを、ペトロ以上にご存知の主イエスは、その弱さを赦されるまなざしを向けられたのだと思っています。, 「良いのだ、わたしは、お前のその弱さを、すべて知っている。その弱さを受け入れている。そして、その弱さを贖うために、これから十字架にかかろうとしているのだ」。, 主イエスのまなざしは、そう語っていたのだと思います。この後、讃美歌の197番「ああ主のひとみ」、をご一緒に賛美いたします。その二節はこう歌っています。, 「ああ主のひとみ まなざしよ、三たびわが主を いなみたる、よわきペトロを かえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや」。, もし、この時のまなざしが、罪を咎めるまなざしであったなら、ペトロは、それほど激しく泣かなかったかもしれません。, あなたは、私の弱さを咎めている。けれども、私たちの期待を裏切ったあなたにも、責任の一端はある。そんな思いを抱いたかもしれません。, しかし、主のまなざしは、一方的な赦しのまなざしでした。そのまなざしを受けて、ペトロは、自分の弱さに、男泣きに、泣き崩れるほかなかったのです。, しかし、それにも拘らず、主イエスは、なおもペトロを愛し通されたのです。そして、主イエスの、そのお言葉が、その祈りが、そのまなざしが、この後、ペトロを支えていきます。, 「あなたは、イエスと一緒だった」、と女中たちは言いました。しかし、本当を言えば、ペトロが、主イエスと一緒にいたのではなく、主イエスが、ペトロと一緒にいてくださったのです。, そして、主イエスの弟子として、立ち直ることが出来たのです。男泣きに泣きながら、ペトロは、そのことに気が付いたのです。だから、崩れなかったのです。, しかし、主イエスは、ペトロに向かって、「私もお前なんか知らない」、とは決して言われませんでした。, 「私のことを知らない」というような弱さを持ったペトロ。そのお前の弱さを、私はよく知っている。それにも拘らず、お前は、私の弟子だ。, どんなことがあっても、この事実は変らない。このお言葉に、ペトロは支えられたのです。, つまずき、倒れ、傷だらけのペトロを再び立ち上がらせ、無学な、ただの人から、偉大な使徒に、そして殉教者にまで至らしめたのは、実にこの主の愛でした。, 主の苦しみ、主の悲しみは、弟子たちの裏切りと離反によって、更に増し加えられました。, 男泣きに、激しく泣いたペトロ。しかし、激しく泣いた後、ペトロは、心を入れ替えて、「私はイエスの弟子です」、と宣言しに戻っていった、とは書かれていません。, 復活の福音を、「弟子たちに、そして、とりわけペトロに。そう、あのペトロに。弱さの故に、きっと落ち込んで、自己嫌悪に陥っている、あのペトロに告げてやりなさい」、と主は言われたのです。, その主は、この私にも言って下さっています。「そう、そう、あの柏にも告げなさい。弱い、だらしない、あの柏にも」と。, 伝承に依りますと、ペトロは、その晩年、祈りの中で、いつも泣いていたと、伝えられています。それは、二つの涙であったというのです。, 一つは、主イエスを裏切ってしまったことに対する、深い懺悔の涙です。これは、思い出すたびに、身を切られるような、辛い過去の失敗でした。, もう一つは、そのような、駄目な自分を、主が赦してくださり、用いて下さっていることへの感謝の涙です。, 私たちも、皆、ペトロほどではありませんが、同じような経験をしているのではないでしょうか。このペトロの生き方は、私たちの生き方でもあります。, 私たちは、「あなたは、あの人の弟子ですか」、と尋ねられたなら、「はい、そうです。私はあのお方の弟子です。いえ、弟子にして頂いた者です」、と応えることが出来る者でありたいと思います。, 茅ケ崎恵泉教会では、民数記6章24節以下に記された、「アロンの祝福」とコリントの信徒への手紙二の13章13節の、「パウロの祝福」を、繋ぎ合わせて祝祷としています。, 「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」, この祝祷の中で、心に刻まれるべき言葉は、主があなたに御顔を向けてくださる、まなざしを向けてくださる。, そのまなざしとは、どのようなまなざしなのでしょうか。あの晩、主イエスが、ペトロに向けられたまなざし。赦しと慈しみのまなざしではないでしょうか。, 私たちは、毎聖日の礼拝において、この主の愛のまなざしによって、赦され、生かされ、新たな力を与えられて、歩み出すのです。, この後で、そのまなざしに支えられ、そのまなざしを感謝しつつ、主の聖餐に、共に与ってまいりたいと思います。.
礼拝説教 「ペトロの否認」 エレミヤ書 14章19~22節 ヨハネによる福音書 13章36~38節、18章15~18、25~27節 小堀 康彦牧師.   日本キリスト教団大磯教会 〒255-0003神奈川県中郡大磯町1348 TEL0463-61-0748  FAX0463-63-2025, 聖書の4つの福音書に共通に記されていることは、主イエスが十字架につけられて殺されたこと、復活されたこと、また、多くの奇跡をなさったことなどですが、その中で重要な記事の一つが、「ペトロの否認」の出来事です。主イエスが大祭司の屋敷へ連行され尋問を受けたとき、ペトロともう一人の弟子(ヨハネ)は、その屋敷の中庭に入ったのです。しかし、ペトロは門番の女中に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われたとき、「違う」と否認した。しかも、主イエスの予告したように「鶏が鳴くまでに」三度否認したのです。共観福音書には、ペトロがイエスを否認した後に、外に出て、激しく泣いたと記され、また、主イエスが愛のまなざしを向けてくださったと思われる記事を読むことができます。ペトロは自分の弱さに泣きました。私たちも同情を覚えます。なぜなら、ペトロは愚かで情けないすべての人の弱さを代表しているからです。このペトロの否認、この弱さは、ともすると希望を失いそうになる教会にとって、また、自分の弱さ、ふがいなさに泣かねばならない人にとって、一つの福音です。なぜなら、主イエスを三度も否認した弱いペトロが岩(ペトロ)と呼ばれ、彼の信仰告白の上に教会が立つからです。私たちの弱さも主に用いられるのです。.  その時ペトロは、イエス様に告げられた言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣いたのです。, イエス様の弟子として、おそらく自分が一番偉いと思いながら、イエス様と三年間共に歩んできたペトロ。イエス様の言われたとおり、鶏が鳴くまでに3度、イエス様のことを「知らない」と否定したペトロ。 レントの第5週となりました。主イエスは逮捕され大祭司のもとに連行され尋問を受けられました。衝撃的な出来事です。あろうことか弟子のペトロは、「イエスの弟子ではないか」と問われた時に、「違う」と3度までも否定してしまいます。その時、かつて主イエスが予告していたように、鶏が鳴いたといいます。このことは弟子たち、特にペトロにとってはどうしても告白し後世に語り継がずにはいられない出来事であったのです。, 大祭司アンナスのところで主イエスは尋問されました。裁判を受けたのです。そのことでヨハネ特有の記事が一つあります。「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。」(19節)、イエス及びその弟子たちがどのような組織かを確認しています。イエスのお答えは、何も隠すようなことはない。私の話を聞いた人々から直接聞けばよいでした。至極ごもっともな主のお答えです。イエスご自身は弟子たちのことについては直接何も触れません。ところが、ここでペトロという弟子の代表を通して弟子たちがどのようなものであったかが語られているのです。, ペトロはもう一人の弟子と共に大祭司の屋敷に入りそこで門番の女性から、「イエスの弟子の一人ではないか」と聞かれ「違う」と否認したのです。一度ならず二度,三度「違う」と否認してしまうのです。すると鶏が鳴きました。かつて主イエスが言われたとおりになりました。それが現実でした。愛する主との関係を否定したのは捕まれば自分が殺されるという恐怖心でした。主イエスが弟子思いなのに、弟子は我が身可愛さで主を否認するのです。我が身を守るためには師をも捨ててしまうような者のダメさを知りながら、主は赦し、用いてくださるのです。主の十字架と復活を経て弟子たちは自らを主のために献身することができたのです。, 日本キリスト教団 札幌教会(さっぽろきょうかい)  〒060-0031 札幌市中央区北1条東1丁目 TEL 011-221-2444    イエス様は、ペトロがご自分を裏切ることになることも、ご自身が逮捕される時にペトロがイエス様を見捨てて逃げ去ることも、三度ご自身を「知らない」と否認することも、知っておられました。イエス様は神の御子であられ、人間には知り得ないことを知ることが出来るお方でした。そして、イエス様ご自身が、そんなペトロのために祈られていたというのです。ペトロが信仰を失わないように、ご自身を裏切るペトロが、裏切った苦しみから立ち直るために。  この後、イエス様のまなざしの中でまことの我に立ち返り、泣いたペトロは、イエス様の十字架と復活を通して強く変えられ、イエス様を裏切ったという挫折から立ち直り、命を掛けてイエス様のことを宣べ伝える伝道者に変えられていきました。ペトロの生涯の終わりまで、まことの光であられるイエス様のまなざしはいつも共にあり、イエス様の言われた「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という言葉が、絶えずペトロを励まし続け、イエス・キリストを宣べ伝え続けたに違いありません。  イエス様はその事が起こった時、振り返り、ペトロを見つめられました。 また、「ガリラヤの者」という言葉、これはある意味差別用語でした。ガリラヤには独特のなまりがあったのだそうです。当時は、「ガリラヤ人に聖書を読ますな。大事な聖書の語句が変わってしまう」のようなことが言われるほど、言葉の意味が別の言葉に聞こえるようななまりだったと言います。例えば、日本語で譬えてみますと、江戸っ子はシとヒがひっくり返ります。ヒツジをシツジ、ヒガシをシガシと言ってしまう。そのような意味を違えてしまうことが起こるので、ガリラヤなまりは、蔑まれていたのです。ペトロのガリラヤなまりの言葉が、蔑みと共に、「イエスの弟子だ」と言われてしまったのです。 礼拝説教 「ペトロの否認」 エレミヤ書 14章19~22節 ヨハネによる福音書 13章36~38節、18章15~18、25~27節 すると、別の人―この人も男性名詞で書かれています―が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ったのです。「言い張った」というのですから、余程強い眼差しで、ペトロを責めたのです。


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